グウェンの母方の祖母エマ・リチャードソンは1893年(明治26年)、自分の庭で育てた植物から初めて独創的な自然化粧品を作り出しました。 エマは、自然の油と果汁を抽出しこれを手で混ぜ合わせてすばらしいクリームやローションを作っていたのです。これらのクリームやローションは、肌を美しくするだけでなく肌荒れを防ぐこともできました。グウェンの母ヘレン・シーガーはエマがそのようにして化粧品を作るのを眺めながら育ちました。そしてこれらの化粧品の製法に関心を示す年頃になって、彼女も自分なりにいろいろと経験を重ねその他の植物の油や果汁をもつけ加えてグウェン化粧品の処方を完成させました。
グウェンの父は発明家であり母のためにスチーム・コンプレッサーなどを作り、ヘレンはこれを使ってそれまでできなかった多くの油や果汁を抽出することに成功しました。こうしてグウェン化粧品は1915年(大正4年)~1918年(大正7年)にかけて市場に出されることになったのです。
やがてヘレンの化粧品は次第に有名になり需要も増えてまいりました。そんな時ヘレンはイタリアでヨーロッパ各国の王室向けに化粧品を作り続けていた国際的な化粧品の化学者ルイ・クレメンテ博士と出逢い、提携して事業を行なうことになりました。
博士がアメリカヘ渡った直後のことでした。ヘレンと博士は、お互いの処方を結びつけ当時だれにも真似のできない品質の化粧品を作りあげて行きました。博士の死後もヘレンは研究を続け化粧品をヨーロッパの各王室に納め続けておりましたが、そうしているうちにヘレン自身もまた国際的自然化粧品化学者“プリンセス・ヘレンと呼ばれるようになり米国化粧品業界で知られるようになったのです。
グウェンもまた母へレンから自然化粧品の生産に関するあらゆる訓練を受け研究所でおびただしい量のクリームやローションを作り続けてきました。
グウェンは一方でハリウッド女優として活躍し、あのビビアン・リーと「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ役を最後まで争ったほどです。そのような中、あらゆる大スタジオの映画に出演しているうちに彼女の肌の輝きと滑らかさが賞讃の的となり、これらのスタジオでもヘレンの化粧品に対する需要が増えていきました。そこでグウェンはただ女優として終るのではなく、スタジオの大スターたちすべてに美しくなってもらうため化粧品の販売にも着手しました。
ヘレンは1963年(昭和38年)に他界し、その後はグウェンが母の化粧品の生産と販売を引き継ぎました。 そのグウェンも1994年に惜しまれながらも帰らぬ人となりましたが、彼女がすべての女性が女性本来の幸せと満足を得ることができるよう、すべての女性を美しくするという願いに生涯を捧げた結晶が「グウェン化粧品」として今もなお息づいています。